2017年8月7日月曜日

8/6「持ち物を売り払って」マタイ19:16-26

                           みことば/2017,8,6(主日礼拝)  123
◎礼拝説教 マタイ福音書 19:16-26                日本キリスト教会 上田教会
『持ち物をみな売り払って』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
19:16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。20 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。22 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。(マタイ福音書 19:16-22)
                                               
1:27 神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。         (コリント手紙(1)1:27-31)



 初めに一つ、誤解しやすい事柄を解きほぐしておきましょう。21節で、主イエスが「もしあなたが完全になりたいと思うなら」と語りかけます。「完全。正しい」は、聖書の中では2種類に使い分けられます。一つは、神ご自身についての文字通りの意味で。もう一つは、神によって造られた人間やそのほかの被造物に対して、ずいぶん割り引いた、限定的な意味で用いられる場合と。なぜなら基本的に、神ご自身以外には、本当の意味で完全なものや正しいものなど有るはずがないからです。「神の御心にかなって生きようとする」「神の御前に慎み、へりくだることができる。神に従い、神を尊んでありたいと願って生きる」などという程度の意味で。ここでも、そういう意味です。『天に宝を積みながら、主イエスに従って生きることができる』ことが、若者にとっても私たちにとっても、最大限の精一杯の完全さと正しさです(例えばノアや、マリアの夫ヨセフなどが『正しい人』と呼ばれました。その正しさが限定的・部分的意味であり、大きな欠けをも含んでいることが直ちに暴かれます。彼らも含めて、憐れみを受け、ゆるされて救われるほかない惨めな罪人に過ぎないからです。弁えておかねばなりません。そのため、わざわざ、ノアは洪水後に醜態をさらし、ヨセフは人間的な臆病さや身勝手なズル賢さを暴露されてしまいます。創世記8:21,9:20-27,マタイ1:18-21,ローマ手紙3:21-28

  まず、23-26節の主イエスと弟子たちとのやり取りに目を向けましょう。一見すると、「財産のある者や金持ちが神の国に入ることは難しい」と主イエスが仰っている、かのように見えます。そうでしょうか? では逆に、貧乏人や借金を山ほど抱えた人なら、それなら簡単に神の国に入れるのでしょうか。神さまは金持ちが嫌いで、貧乏な人をえこひいきするのか。いいえ、そうではありません。神さまは分け隔てをなさらない。むしろ分け隔てをしつづけるのは、もっぱら私たち人間のほうです。神の国に入ることは金持ちにとっても貧乏な人にとってもかなり難しかった。ものの道理をよく弁えた、賢く優れた人々にとって難しいというだけでなく、あまりそうではない普通の人たちにとっても、同じくまったく難しかった。どうして? 神の国と神さまご自身が気難しすぎるのでしょうか。いいえ。気難しくて心が頑固なのは、私たち人間のほうではありませんか。もう一つ、律法の要点『神を愛し、隣人を愛すること』を告げられ、金持ちの青年は「それはみな守ってきました。他に、何が足りないのでしょう」(20)と誇らしげに胸を張りました。来週読み味わうつもりの後半部分、27節のペテロの発言もこれとよく似ています。そっくりです。「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。「ちゃんとやってきた。何でも持っているし、分かっている」という強い自負心とプライドが彼らの共通点。むしろそれらこそが、彼らの飛びっきりの財産です。それならば、すっかり全部捨ててきたと胸を張るペテロなら、こういう自信満々で立派そうな人なら、簡単に神の国に入れるのでしょうか? 神の国に迎え入れられるために、どんな人物がふさわしいでしょう。あなた自身は? 26節の、主イエスご自身からの決定的な答え、「人にはそれはできないが、神には何でも出来ないことはない」。これが聖書自身からの唯一の答えであり、今日の道案内です。
  では、はじめから順を追って確かめていきましょう。一人の裕福な若者が主イエスと語り合い、立ち去っていきました。マタイ福音書だけでなく、マルコ福音書もルカ福音書も、この同じ一つの出来事を報告します。つまり、とても大切な対話だった。この末尾に、主イエスとのやりとりがうまく実を結ばなかったとき、その若者は「悲しみながら立ち去った」(22)とあります。あの彼は神さまを真剣に求め、答えを見出したいと心から願いました。どのようにして自分は心安く晴々として生きてゆくことができるだろうか、と。この私はどこから来て、どこへと向かおうとしているのか。いま現在、どこにどう足を踏みしめて立っているのか。何のために生きて、やがてどんな腹積もりで死んでいくのか。いったい何があれば自分は安らかに満たされ、幸いを噛みしめることができるか。
 16-20節。主イエスは答えながら、十戒を、かつてシナイ山でモーセが神から受け取ったあの10の戒め(出エジプト記20:1-,申命記5:6-)を、彼と私たちに思い起こさせます。「なぜ、よい事について私に尋ねるのか。よい方はただ独りだけである」。つまり、神お独りこそが善いお方である。それはモーセの十戒の第一の部分の要約であり、神さまをこそ愛し、尊ぶことです。第一の戒めにつづいて、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」。それは十戒の第二の部分の要約であり、自分自身を愛することに負けず劣らず、隣人をも心から愛し尊びなさいということです。すると、「それはみな守ってきました。他に、何が足りないのでしょう」と若者は誇らしげに胸を張ります。申し分のない、とてもちゃんとした立派な自分である。「それはみな守ってきました」。本当でしょうか。いいえ、とんでもない。
 16節。「永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と彼は問いかけ、心から願い求めました。神との親しい交わりを。また喜ばしく幸いに生涯を生き、やがて希望を持って死んでいくこともできるようにと。パッと見た感じでは、あの彼が主の弟子とされるには何の不都合も落ち度もないように見えます。けれど残念なことに彼には、永遠の命よりも、他に大切に思えるものを抱えていました。21節、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。「お金のことかァ。私はそんなに金持ちじゃないから関係ないや」と、あなたは安心してはいけません。あなたや私には、色々な種類の《財産。宝》が他にも沢山あります。目に見える、誰にでもすぐに分かる財布の中身や通帳の残高に記されてあるような財産もあるでしょう。けれど、それだけではありません。「立派に、ちゃんとやってきた」という自負とプライドもまた私たちの大切な財産でした。財産。「私にはコレがあるから大丈夫。心強く安心」という支えであり、頼みの綱であり、誇りや自慢の種のことです。財産をいっぱい持っている人も少ししかない人たちも、共々に、その大好きなものにばかり目も心も奪われて、なかなか天に宝を積むことができなかった。神さまを愛することも隣人を十分に尊ぶことも、そのおかげで、とてもとても難しかった。主イエスご自身から、あの山の上での長い礼拝の中で、「貧しい人は幸いだ」と告げられていました。それはいったいなぜだろう、と思っていました。「神は、この世の愚かな者を選び、弱い者を選び、身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者をあえて選ばれた」と告げられました。なぜだろうと私たちは思っていました。「小さな子供のようにならなければ、だれも決して神の国に入ることはできない」(マタイ5:3, 19:30,20:16,コリント(1)1:26-)と告げられていました。なぜだろう? へそ曲がりで変わり者の、偏屈な神なのだろうか。恥をかかせてそれを喜ぶ神か。いいえ、そうではありません。大きな者や賢く偉い者や金持ちや、社長や名誉会長が神は嫌いなのだろうか。いいえ、決してそうではありません。もちろん彼らの中にも神の救いに預かり、憐れみを受け取る者が起こされました。けれど一筋縄ではいかなかった。彼ら自身の大きさや高さや偉さや豊かさが、彼らと神との間に入って、邪魔をしていました。人様の前でも神様の前でも自分を誇ろうしてウズウズする思いや、「誇りたい。それなのに」という願いや鬱屈が邪魔をしていました。「本当は私は大きい。賢く優れていて誰よりも立派だ。私が偉い。私が先だ」と思い込んでいました。大きな大人のつもりで神の国を受け入れようとしていました。あ もしかしたら、彼らはその誇り高い豊かで偉い場所で神を待ったのかも知れません。けれど、そこに神はおられません。待ち合わせ場所を、うっかり間違えています。そこでは、憐れみの神と出会うことも、神の憐れみを受け取ることもできるはずがなかった。後にされ、低い場所へと引き下ろされて、そこで初めて気づきました。打ち散らされ、空腹のまま追い返され、恥をかかされて、そこでようやく我に返りました。「ここだったのか。神さまとの待ち合わせ場所はここだ。ここが恵みと憐れみを受け取るためのいつもの場所だった」と。
 あの若者は、「私にはとても出来ない。無理だ」と思いました。ひどくがっかりして気を落とし、悲しみました。けれど兄弟たち、それでいいのです。神さまは、分け隔てをなさらない。が、「この人にはこれをこういうふうに。この人にはこうやって」と人を見て法を説く。「持ち物を全部売り払え」といつも乱暴に誰彼構わず言うわけではなかった。ほとんどこの彼だけが、こんなに厳しいことを命じられます。みなさんの中で、同じようなことを言われた人はいますか? 家、土地、田畑、財産すべて売り払って施せと。そんな人は他には滅多にいません。自負心と財産に執着してガンジガラメに縛られていたあの彼だから、ここまで言ってあげる必要がありました。例えば、大金持ちのザアカイにはそんなこと一言も言いませんでした。身を屈めさせられ小さくされた人たちには、わざわざ恥をかかせたりはしません。エコヒイキしているわけでもない。自分は賢く強く立派で信仰深いと思い込んでいる人たちには、わざとたっぷりと大恥をかかせてあげます。大金持ちで、しかも自分はちゃんとやってきたと自惚れている者たちには特に、「じゃあ、それならあなたは全部を売り払え」と突きつけて、心底から悲しませる必要がありました。恥をかかされたとき、心を痛めて悲しんだそのとき、神さまの憐れみへと向かう入口に立たされていました。逆に、ちゃんとやっている正しいとうぬぼれて晴れ晴れしたとき、私たちは崖っぷちに立たされ、あやうく救いからこぼれ落ちようとしていました。「自分を信じている」と書いて「自信」。もし仮に、自分を信じているし、自分自身を頼りとしているのなら、神を信じたり、神を頼りとして生きる余地はまったくないではありませんか。あなたはどうですか? 私たちも誰も彼も、何かが出来るから出来ているからとここにいるわけではありません。ねえ皆さん。かなり欠けており、出来ないから、自分では到底できないと嘆き悲しむからこそ、だから私たちは神さまを求め、救い主イエスの御前へと向かいました。自分自身の罪深さや、憐れさ惨めさを知り、囚われている自分の不自由さをつくづくと思い知らされ、そこからなんとかして自由になりたくて、だからこそ私たちは、救い主を一途に仰ぎ見ました。あの若者は、必死に質問しました。弟子たちも、「では、だれが救われるだろうか」と首を傾げました。主イエスはお答えになりました;26節、「人にはそれはできないが、神には何でも出来ないことはない」。あなた自身には逆立ちしてもできないと告げる神は、そこで直ちに、「あなたのためにも、この私こそがしてあげよう」と招く神です。「あなたに欠けているものがある」と容赦なく指摘なさる神は、そこで直ちに、「この私の憐れみのもとでなら、あなたは十分に満たされる。ぜひ私が満たしてあげたい」と願ってくださる神です。そういう神さまです。

             ◇

 一つの真実を、あなたに告げましょう。自分のものを全部すっかり売り払って貧しい者に分け与えたのは、それは誰だったでしょう。自分が抱え持っていた大切なものを投げ捨ててくださった方は、どなただったでしょう? 分けていただいたあまりに貧しい者とは、いったい誰のことでしょう。あまりに貧しいままに受け入れていただいた私たちでした。あなたや私を貧しいままに迎え入れるために、神ご自身が身を屈め、ご自分を低くし、あまりに無防備になって貧しく小さく惨めな姿になってくださいました(ピリピ2:5-)私たちは思い至りました。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてあげること。いつ、誰が、それをしたのか。……神ご自身こそが そうか。憐れみの神こそが、この私のためにさえ、こうしてくださったのか。私たちは、このようにしていただいたのか。遠く離れて、神と何の関係もなく生きていたあまりに貧しく虚しい私たちでした。小さな子供のような、途方に暮れた、どうしようもない私でした。まったく備えのなかった貧しい私たちに、こんな私のためにさえ、神さまは、ご自分のための特等席を譲り渡し、ご自分のための格別に良い財産を分け与え、それどころか、貧しい私たちのために心を砕くあまり、神の栄光も尊厳も力も権威も、生命さえ売り渡してくださった。ああ良かった。「あなたに欠けているものがある」と厳しく叱っていただけて。その欠けたもの、足りないものは誰によっても他のどんなものによっても満たしようがない、と教えていただけて。うかつで気もそぞろだった私も、それで救い主のもとへと大慌てで戻って来られて。「あなたに欠けているものがある」と突きつけられ、とても心を痛めたそのとき、そこが、この私にとっても別れ道でした。信仰と不信仰の、悲しみながら立ち去ることと、神さまの憐れみのもとに大喜びで留まることの、いつもの別れ道であり続けます。留まらせていただけて、本当に嬉しい。だからこそ私たちは、こんな私さえ今日こうしてあるを得ています。
 あの若者からの初めの質問です。「永遠の命を贈り与えられて、喜んで受け取ることができるためには、救われるためには、何をしたらいいですか。何があったら十分ですか?」。答え。《神さまからの恵み恵み恵み。憐れみ、憐れみ、憐れみ。後は、それをただ受け取るだけ。受け取って、がっちりと抱え、手離さずにいること》。以上です。他には、何一つ付け加えてはなりません。主イエスからの恵みと平和がありますように。あなたの大切なご家族お一人お一人にも、あなた自身にも、ぜひありますように。ありつづけますように。