2017年10月10日火曜日

10/8「強盗の巣にしている」マタイ21:12-17

 ◎とりなしの祈り                      108日(主日)

  救い主イエス・キリストの父なる神さま。自分自身を愛し尊ぶのと同じに、隣人を愛し尊ぶ私たちとならせてください。「自分に良い顔を見せ、親切にしたり愛してくれる人を愛したからといって、何の良いことをしたことになろうか。兄弟や親しい仲間たちにだけ挨拶をしたからといって何のよいことをしたことになろうか」と戒められている私たちです。ですから顔見知りや仲間や同じ信仰の同じ民族の者たちを気遣って思いやるだけではなく、自分たちとはほんの少し違う文化や価値観をもつ他の国籍や民族の人々に対しても、同じく気遣って思いやる私たちとならせてください。しかも、この国でも世界中でも、『自分たちと親しい仲間たちだけが良ければそれでいい』と自分勝手になる風潮が広がり、深くはびころうとしているからです。分け隔てをして他者を憎んだり、見下したり、邪魔者扱いして押しのけようとする悪い思いを、どうか、この国に住むすべての人々の心から、そしてもちろんこの私たち自身の心の中からも、すっかり取り除いてください。しかも私たちは、神さまにこそ従って生きるようにと召し出されたクリスチャンです。人間中心・自分中心のあり方からきっぱりと離れ去り、あなたへと私たちを向かわせてください。『サタンと自分の腹の思いに従って生きること』を止めて、その代わりに、『心と思いを尽くして神さまの御心にだけ聴き従って、神さまにこそ仕えて生きる私たち』とならせてください。それこそが最も幸いな祝福された生き方であると、私たちはすでにはっきりと知ってしまったからです。私たちの父なる神さま。人間の力にではなく、あなたご自身の力にこそ信頼し、人間の賢さにではなく、あなたご自身の知恵と賢さにこそ聞き従って生きる私たちであらせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン




      みことば/2017,10,8(主日礼拝,伝道開始143周年記念)  131
◎礼拝説教 マタイ福音書 21:12-17                    日本キリスト教会 上田教会
『強盗の巣にしている』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。14 そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。17 それから、イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。                             (マタイ福音書 21:12-17)
                                               

12-13節。主イエスは神殿に入り、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」とその境内で商売をしていた商人たちに言って、彼らを追い出しました。商人たちは、はるばる遠くから礼拝にきた人々のために神へ献げものとする生き物などを売って商売をしていました。主イエスはその露天商、両替商の台や椅子をひっくり返し、商人たちだけではなくお客たちまでもみな追い出してしまいます。今日のキリストの教会では、この箇所をどういうふうに説き明かしているでしょうか。なによりまず、主イエスのこのあまりに非常識・反社会的な乱暴狼藉。「イエス様って子供が大好きでいつも優しくて親切で、いつでも何があってもニコニコしていて」と教えられてきたかも知れません。もし万一こんな姿が世間様に知れたら、せっかくの良い評判がガタ落ちで、だれもキリスト教会に来なくなるかも知れません。さあ困りました。けれど、奇妙な反応がここで沸き起こっています。その騒ぎの中で、子供たちが「ダビデの子にホサナ」と口々に大喜びで叫んでいます。「ホサナ」とは、神に向かって「どうか救ってください」と祈り求めている言葉です。その願いを「ダビデの子に」向かって願い求めている。つまり預言者たちによって預言され、約束されていたとおりにダビデの子孫の中から救い主が起こされ、この世界に遣わされてきた。目の前にいるこのお方がその救い主である。主よ、救い主よ、どうか私たちを救ってくださいと。
しかも境内にいる子供たちが叫ぶなら、その親たちも多くの大人たちも同じように、主イエスの語る神の国の福音に熱心に耳を傾けていたでしょう。今日でもそうであるように、父さん母さんに教えられて、その子供たちは親が習い覚え、信じているとおりに習い覚えます。だからこそ多くの大人たちも子供らと一緒に呼ばわったでしょう、「主よ、救い主よ、どうか私たちを救ってください」。だからこそ祭司長たちや律法学者たちはカンカンに腹を立て、主イエスを激しく憎みながらも、けれど喜び迎える多くの人々を恐れて、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」などとひどく遠慮しながら遠回しに苦情を言う他、手出しも口出しもできません。だからこそ、イエスを殺したいとますます激しく憎み、「殺してしまおう。じゃあ、いつごろ具体的にどうやって」と密談し始めるほどです(ルカ19:47-48参照)。――もしかしたら、道理にかなって正しかったのは、あの彼らではなく乱暴狼藉を働いている主イエスのほうだったのかも。あのとき、主イエスは仰いました。「わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。モノを売っている商売人たちばかりでなく、それを買っている、神を信じているはずの礼拝者たちまで境内から冷酷非道に追い払って。それでもなお人々は、「その通りだ。本当だ」と主イエスの発言と振る舞いを強く支持しました。祭司長たちや律法学者たちはハラワタを煮えくり返しました。「すべての者たちの祈りの家であるべき。それなのに、あなたたちは」と断固として告げ知らされて、ある人々は大喜びし、別の人々は心を痛めて恥じ入ったり、カンカンに怒ったり。奇妙なのは、テーブルやイスをひっくり返され追い払われた商売人たち当人ばかりでなく、祭司長たちや律法学者たちこそがすごく怒っている。なぜ? もしかしたら、その彼ら自身こそが祈りの家を強盗の巣にしてしまった腹黒い張本人たちだったのかも。「まさか。それはこの私のことでは?」と心を痛めて、ここで本気になって、私たちこそは我と我が身を振り返ってみましょう。あなたも、この私自身も。どんな救い主だと思っていましたか。主イエスは嬉しそうにニコニコしているときもあれば、それだけではなく心を痛めたり、嘆いたり、今回のようにカンカンに腹を立てて激しく怒ったりもなさいます。ただしい神であり、しかも憐れみ深い神でもあられるからです。それはちょうど、父さん母さんがわが子を愛するようにです。その子が親の言いつけをよく守り、お手伝いも喜んでするハキハキ明るい子であっても、あるいはあまりそうでなくても、ないしろ親は子を愛します。考えてみてください。もし仮に自分の子供が何をしても「いいよいいよ」とニコニコしている親がいるとしたら、その父さん母さんは多分もう、その子をあまり大切に思っていないでしょう。声を荒げたり、本気になって厳しく叱るべきときがあります。子を愛して止まない親のような神さま。いいえ、親である神さまです(ローマ手紙8:14-17,ガラテヤ手紙4:5-7,ルカ福音書11:11-13,申命記8:5)。しかも救い主イエスは、初めから終わりまで徹底して『神殿の主』でありつづけます。12歳の迷子事件のとき、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」。サマリア人の女性と井戸の傍らで語り合ったとき、「まことの礼拝をする者たちが霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。神は霊である。だから、神を礼拝する者は霊と真理をもって礼拝しなければならない」と。エルサレムの都と神殿を見て嘆いて、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」(ルカ2:49,ヨハネ2:19-22,4:21-24)。そして今回、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」。すべての国の人のための祈りの家でなければならない。ただ国籍や民族という枠組ばかりでなく、どこに住んでいる、どんな生い立ち、境遇の人も。どんな能力や経歴の、どんな性分のどんな暮らしぶりの人であっても。今日では、黄色や赤や黒い肌の色の有色人種たちを見下して、世界中の多くの白人たちも得意がっていました。この国の多くの日本人たちも、同じようなよく似たことをしつづけています(*)。小さく身を屈めさせられた者たちの喘ぎ声や痛みや叫び声など耳に入りませんでした。そのようにして、祈りの家に住む私たちは度々繰り返して強盗や追い剥ぎに成り下がってしまいました。心が痛みます。エレミヤ書71-11節を、先ほどご一緒に読みました。「主からエレミヤに臨んだ言葉はこうである。「主の家の門に立ち、その所で、この言葉をのべて言え、主を拝むために、この門をはいるユダのすべての人よ、主の言葉を聞け。万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたの道とあなたがたの行いを改めるならば、わたしはあなたがたをこの所に住まわせる。あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる」。エレミヤの時代の神殿と人々、そして今日のキリスト教会と私たちクリスチャン。では、わたしたち自身の目にはどう見えるでしょう。預言者エレミヤはなんと言うでしょう。神ご自身は? 「わが民イスラエルの悪のために、わたしが聖所を破壊した。今のあなたがたも同じだ。わたしはあなたがたにしきりに語ったけれど聞かず、あなたがたを呼んだけれど、あなたがたは答えようとしなかった。わたしの家を、ついに盗賊の巣にしてしまったではないか」と。荘厳な音楽に導かれ、美しい言葉で祈り、教養あふれる耳障りのよい説教を聞き、設立250年だ300年だなどと教会の権威や伝統を誇り、わたしたちも今日「救われた」「慰められた。とても励まされ、勇気と喜びを与えられた」などと言い合うかも知れません。善良で清らかそうな顔をして、互いに「先生、先生」などと挨拶をし合うかも知れません。けれど、もし他方で互いに公正を行わず、家では家族を困らせたり殴ったり蹴ったりし、職場では部下やパートタイムの労働者たちに辛い思いをさせ、外国からの労働者と貧しい人々をしいたげ、そうやって神ではないモノたちと自分の腹の思いにばかり従っているならば。しかも、神殿を愛する主の熱情こそが、これ語らせています。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」。だからこそ、いつも私たちの耳元にささやきかける声があります、「神に聞き従うよりも、周囲の誰彼や自分自身の腹の思いに聞き従う方が神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。いいや、ちゃんと十分に判断できるはずのあなたではないか。それなのに、あなたは何ということをしているのか」(マタイ21:13,24:2,ヨハネ2:19-22,ローマ手紙12:1-,コリント手紙(1)3:16-17,6:19-20,使徒4:19参照)
「この神殿を壊したら、わたしは三日のうちにそれを起こすであろう」と救い主イエスご自身が確かに約束なさり、それを成し遂げてくださっています。ご自身が新しい祈りの家の土台となり、わたしたちを招きます。聖書は語りかけます、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげよ。心を新たにし、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知りなさい。いいや、そのように心得て弁え生きるあなたとならせてあげよう。この私こそが、そういうあなたとならせる」と。ご自分がお造りになったこの世界と私たちすべてを愛して止まない神さまは、やがてしばらくして、ご自分の祈りの家をまったく新しく建て直しました。古い建物を丸ごとすっかり取り壊して。ご自身の体と生命をもって、死と復活をもって。ビックリ仰天です。「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」と主イエスが仰ったのを聞きました。その新しい神殿とは、ご自分の体のことでした。死者の中から復活なさった救い主イエスこそが、新しい神殿の土台とされました。そのようにして1個のキリスト教会が建っており、夥しい数の祈りの家が新しく建てられつづけます。教会とその共同体がそうだというばかりでなく、今や、主イエスを信じて生きる1人1人のクリスチャン皆が、自分自身の体を神の神殿とされました。ああ、そのとおりです。キリスト・イエスにある生命の御霊に法則は、罪と死との法則から私たちを解放したし、日毎に解放しつづけます。この私たち自身の体も魂も、『強盗の巣』から『生命の御霊の宿る神殿』へと移し変えられつづけます。死ぬべきだった私たちの体は、神の御前で、神に向けて生かされつづけます。なぜなら私たちはキリストの御霊をもち、イエスを死人の中からよみがえらせた天の御父の御霊が私たちの内に現に確かに宿っているからです。そのことを、私たちも知らされています(ローマ8:1-11参照)。ついにとうとう私たちも、自分自身の腹の思いにではなく、神の御心にこそ服従して、神に聴き従って生きる者たちとされているからです。
神殿の主イエスよ、死から生命へと捕らえ移され、あなたの力とご支配の下に堅く据え置かれている私たちであることを、どうか私たちにはっきりと思い起こさせてください。死から死へと滅びの道を辿り続けることを直ちに止めさせ、あなたの生命へと立ち戻らせてください。朝も昼も晩も、立ち戻らせ、私たちにあなたからの新しい生命を得させつづけてください。


(*)人種や様々な差別の風潮が世界中で広がり、またそれに対する抗議の反応も高まっている。米国空軍の士官学校内の掲示板に書かれた差別的メッセージに対して、士官・学校校長のシルヴェリア中将は「他者に敬意をもてない者はここから去れ」とスピーチ(2017929日)。【You Tube「他人を尊重できないなら出ていけ」 米空軍士官学校の校長】 で視聴できます。抜粋の翻訳文もありましたから、以下に添付します。どうぞ、見て聞いて読んでください――

「人種差別的な落書きがあったそうだ。 諸君。女たちも男たちも。わが空軍士官学校の予科過程で何者かが人種差別的な言葉をメッセージボードに書き込んだことについては聞き及んでいることと思う。聞いていなかった者には今から話す。もしきみが、このような言葉にはげしい怒りを感じるなら、きみは正しい。この手の行為は、予科では許されない。士官学校でも許されない。米国空軍でも許されない。きみたちは、はげしく怒らなくてはいけない。空軍の軍人としてだけなく、人間として。
ここではっきり言う。この不愉快な言葉、不愉快な考え方に対する、あるべき反応はただひとつ、それよりもよい考え方を持つことだ。そのために私はここにいるのだ。そのために今ここにみんなが集まっているのだ。窓の方を見てみなさい、みんな集まった、職員も、教員も、本部の人々も、空軍士官学校全体がここにいる。もうちょっとこっちに寄って。軍の指導者たちがここにいる。G准将、A准将、B大佐、ワシントンDCからK氏も来た。このためにみんな集まった。このために私たちはここにいる。私たちにはもっといい考え方がある。この中には、今回のことは自分には関係ないと思っている者もいるだろう。ここでは何も問題ないと思っているなら、私はもの知らずのアホウで、きみたちももの知らずのアホウだ。この問題について話し合うことはないと思っているなら、私たちはみんなアホウだ。シャーロッツビル、ファーガソン、NFLの抗議運動。この国で今起こっていることだ。その背景を考えないのは、ただのオンチだ。・・・・・・(中略) 私にはもっといい考え方がある。それは私たちの多様性だ。多様性の力だ。きみたち4000人の力だ。そしてここにいる職員たち、教員たち、関係者たちの力だ。多様性のあるグループとしてのわたしたちの力だ。私たちの一人一人がそこから出てきた、さまざまな階級、さまざまな土地、さまざまな人種、さまざまな経歴、性、性格、教育、そういった多様性の力が、いっしょくたに合わさって、私たちを強くする。くだらない思惑や不愉快な思想より、ずっといい考え方だ。そう思えばこれは好機じゃないか。5500人が、今、ここにいる。一組織として、いったい私たちは誰なのか、考えられる。これは私たちの組織である。誰ひとり、私たちから、この価値観を取り上げることはできない。誰ひとり、この価値観に反することを掲示板に書くことはできない。誰ひとり、それを私たちから取り上げることはできないのだ。きみたちはまだハッキリわかってないかもしれない。だから私は、今日のいちばん大切な部分をきみたちにゆだねることにする。人に対し、価値をみとめ尊敬をもって接することができない者は出ていきなさい。他のジェンダーの人を、男であろうと、女であろうと、価値をみとめ尊敬をもって接することができない者は出ていきなさい。人の品位をおとしめようとする者は出ていきなさい。人種の違う者、肌の色の違う者に価値をみとめ尊敬をもって接することができない者は出ていきなさい。
携帯を出して。まじめに言ってるんだよ、携帯を出して。いや、なけりゃいい、持っていれば出しなさいと言っておる。携帯でこれを録画してもらいたい。そしたらきみたちはそれを使える。私たちはみんなでこのモラルの勇気を共有できる。私たちみんな、この場にいるきみたち、窓際や窓の外にいる職員たち、教員たち、この中にいる私たち、みんな。これは私たちの組織だ。必要ならこの言葉を取っておきなさい。そしてそれを使いなさい。記憶にとどめ、分かち合い、それについて話し合いなさい。きみたちが、人に対して、価値をみとめ尊敬をもって接することができないのなら、その場合は、ここから出ていきなさい。(伊藤比呂美訳)