2018年2月9日金曜日

2/4「罪をゆるす神のもとに」歴代志下30:1-27

                        みことば/2018,2,4(主日礼拝)  148
◎礼拝説教 歴代志下30:1-27                     日本キリスト教会 上田教会
『罪をゆるす神のもとに』
  【長老・執事の職務につこうとする者のための勧告】
 
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
30:6 そこで飛脚たちは、王とそのつかさたちから受けた手紙をもって、イスラエルとユダをあまねく行き巡り、王の命を伝えて言った、「イスラエルの人々よ、あなたがたはアブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい。そうすれば主は、アッスリヤの王たちの手からのがれた残りのあなたがたに、帰られるでしょう。7 あなたがたの父たちおよび兄弟たちのようになってはならない。彼らはその先祖たちの神、主にむかって罪を犯したので、あなたがたの見るように主は彼らを滅びに渡されたのです。8 あなたがたの父たちのように強情にならないで、主に帰服し、主がとこしえに聖別された聖所に入り、あなたがたの神、主に仕えなさい。そうすれば、その激しい怒りがあなたがたを離れるでしょう。9 もしあなたがたが主に立ち返るならば、あなたがたの兄弟および子供は、これを捕えていった者の前にあわれみを得て、この国に帰ることができるでしょう。あなたがたの神、主は恵みあり、あわれみある方であられるゆえ、あなたがたが彼に立ち返るならば、顔をあなたがたにそむけられることはありません」。・・・・・・15 二月の十四日に過越の小羊をほふった。そこで祭司たちおよびレビびとはみずから恥じ、身を清めて主の宮に燔祭を携えて来た。16 彼らは神の人モーセの律法に従い、いつものようにその所に立ち、祭司たちは、レビびとの手から血を受けて注いだ。17 時に、会衆のうちにまだ身を清めていない者が多かったので、レビびとはその清くないすべての人々に代って過越の小羊をほふり、主に清めてささげた。18 多くの民すなわちエフライム、マナセ、イッサカル、ゼブルンからきた多くの者はまだ身を清めていないのに、書きしるされたとおりにしないで過越の物を食べた。それでヒゼキヤは、彼らのために祈って言った、「恵みふかき主よ、彼らをゆるしてください。19 彼らは聖所の清めの規定どおりにしなかったけれども、その心を傾けて神を求め、その先祖の神、主を求めたのです」。20 主はヒゼキヤに聞いて、民をいやされた。21 そこでエルサレムに来ていたイスラエルの人々は大いなる喜びをいだいて、七日のあいだ種入れぬパンの祭を行った。またレビびとと祭司たちは日々に主をさんびし、力をつくして主をたたえた。                                             (歴代志下30:6-21)
                            


  聖書の神を信じる彼らにとって、祭りは礼拝です。過越しの祭は、かつてエジプトで奴隷とされていた神の民が救い出されたことを大切に覚えるための礼拝です。かつて神さまが先祖を救い出してくださったように、私たちに対しても今その同じ救いと恵みを差し出し、与えてくださると。それゆえ一回一回の礼拝は、神と出会い、神ご自身の御声と御心を聞き分けて、自分自身の魂に刻み込むためにあります。そのために今日も、神さまが私たちを御自身の御前に呼び集めてくださいました。
  紀元前715年頃のことです。ここに報告されている過越祭は、ほかのどの時代にもなかったほどに、とても不十分で不完全な祭りでした。いいえ、そもそも過越祭がすいぶん長い間、執り行われませんでした。おさらいですが、はじめからずっとイスラエルは、他の国々とは違って人間の王のいない国でありつづけました。やがて人間の王を立てる王国制度を採用して(サムエル記上8章参照)、それが3代つづいたあと直ちにイスラエル王国は南北二つに引き裂かれました。それから数十人の王たちが次々と立てられ、すでに北王国はアッスリアによって滅ぼされていました。南王国ユダの命運もまた、風前の灯火でした。その崖っぷちの只中で、ヒゼキヤ王は過越祭を執り行い、また共同体の改革に乗り出していきます。王も祭司も兵隊も役人たちも、大人も子供も、豊かな者も貧しい者も皆、生きて働いておられる神のあわれみの下へと、本気で必死に立ち返らねばなりません。全イスラエルに向けて王の使いたち(=飛脚)は、「主なる神さまに立ち返りなさい。罪を離れ、強情にならないで、主に仕えなさい」(6-9)と呼ばわります。これが祭りへの招待であり、一回一回の礼拝への招きです。その招待状を携えて各地に向かった飛脚たちは嘲り笑われ、とても侮辱的な扱いを受けました。「いずれそのうちに」と聞き流す者たちもありました。けれど、その一方で、身を低くして謙遜にされた少数の人々がエルサレムに集まりました(11)。すべての者たちに『神さまからの招き』が差し出されました。けれど、その招きに応えて集まってきた者たちはほんの僅かでした。14-15節をご覧下さい。王や祭司が神殿を清める有様を知って、人々もまた町を清め、自分自身の家を清め、日頃の暮らしぶりや腹の据え方を改めました(14)民の信仰深い姿を見て、祭司たちとレビ人たちは自分自身を恥じました(15)。『みずから恥じ、身を清めて』とあります。新改訳では、『恥じて身を聖別し』と。自分自身を恥じることと、わが身を聖別し、神さまのものとされること、それらはひと組でした。彼らはそのように務めにいそしみました。あるとき人は熱心になる余り、傲慢にされました。神に帰属する自分だと意識することが、かえって自分とその働きを誇る思いを増長させる。けれど主に仕える働き人たちは、ここでは自分自身を恥じ、へりくだって慎み弁え、そのことをもって自分を聖別し、神ご自身のものとされ、そのように務めに取り組み始めました。14節で祭壇を取り除いたり、川に投げ捨てたりした理由がよく分かりにくいかも知れません。それらは異教の神々を拝む祭壇であり、過越祭が長い間行われず、主なる神への信仰は片隅に押しのけられつづけていました。人々は異教の神々のための祭壇を捨てて、ついにとうとう彼らは主なる神へと立ち帰ろうとしはじめています。
  13節から、いよいよ祭りが始まります。『種入れぬパンの祭り』は、過越祭の一部分であり、その前半部分です。エジプトから救い出された最後の晩の食事では、大急ぎの食事でした。普段は酵母をいれてふっくら膨らませたパンを食べていましたがその晩は酵母の入らないペッタンコのパンを食べました。酵母を取り除く祭りというわけで、除酵祭、「種入れぬパンの祭り」です。酵母菌を取り除くように、家の中からも、人々の魂の中からも、汚れた思いや混じりモノを取り除いて、自分自身を清め、神さまに仕える準備をしよう。それが、過越祭の前半部分。神殿を清め、町を清め、それぞれの自分の家を清め、また自分自身の普段の有り方も、心の思いも、口から出る1つ1つの言葉も清くしたい。人々は本気で、そのことに取り組み始めました。15節。その有様を見て、また自分自身をつくづくと顧みて、祭司とレビ人は恥じ入りました。「ああ、なんてふさわしくない私だろうか」と。そのようにして、働き人たちも自分を聖別し、神さまに仕えて生きるための準備をしたのです。汚れた思いを山ほど抱えた、ふさわしくない私であると恥じ入ること。それこそが、神さまの御前での『ふさわしさ』でした。それこそが、神さまに仕えて働く働き人たちの第一の心得だったのです。
  17-19節。「神のために身を清める」「聖別(せいべつ)する」とは、『神さまのものとされること。神さまに仕えて生きるものとされる』ことです。『自分を聖別することと、自分を清くすること』、ここにはいつも2つの側面があります。儀式的・形式的な側面と、もう一方には、「じゃあ中身はどうなんだ?」という本質や中身を問う側面と。17-18節では、おもにその儀式的・形式的な細々した作法やしきたりが問題とされている、かのように見えます。けれど、そうではありません。私たちの主なる神は、外側や体栽ではなくその心を見、隠されているものをご覧になり、「じゃあ、その中身はどうなんだ?」と本質と中身をこそ問う神であるからです(サムエル上16:7,マタイ6:4)。その同じ神を信じ、神にこそ仕えて生きる今日の私たちは、そういう様々な人々と自分自身とを、どのように取り扱うことができるでしょうか。不十分な備えの中で、不十分な人々が、不十分な心得をもって祭に参加しました。祭りの規定に反する間違った仕方で飲み食いをしてしまった人々が大勢いました。ヒゼキヤ王は祈りました。18-19節、「恵みふかき主よ、彼らをゆるしてください。彼らは聖所の清めの規定どおりにしなかったけれども、その心を傾けて神を求め、その先祖の神、主を求めたのです」。主なる神はヒゼキヤの祈りを聞き入れ、民をいやされました。
  なぜ細々と語ってきたかと言うと、主イエスの十字架の出来事は『第2の過越し』と呼び習わされてきたからです。かつて屠(ほふ)られた小羊の血が家の門口に塗られ、神の民が救い出されたように、今、私たちが救い出されて生きるために、救い主イエスの血が流されたからです。かつて彼らが過越祭の食事にあずかったように、今、この私たちは、ふさわしくないまま、心得も弁えも準備も不十分で、あまりに不完全なままに、聖餐式のパンと杯にあずかっているからです。かつても今も、この主なる神さまによって供えられた食事は、憐れみの食卓だからです。
 過越の食事にあずかること。不十分な備え、ふさわしくない不十分な人々。ふさわしくない不十分な心得、わきまえのなさ。聖餐式のときにたびたび読まれる聖書箇所、コリント手紙(1)11:23-29の後半部分27節以下は告げます;「……だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」。この《ふさわしさ。ふさわしくなさ。弁えのなさ》は、今日でも、多くの人々に間違った仕方で受け取られるかも知れません。
昔のことです。あるクリスチャンの友だちは若い頃、聖餐のパンと杯のある礼拝の席に座っていました。聖餐式になり、コリント手紙(1)11章が読まれ、27節以下も含まれていました;「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」。その友だちは「じゃあ、この自分はどうなんだ? 自分の中身はどうだろう」と振り返って、つくづくと自分を確かめてみました。とても恥ずかしくなり、いたたまれなくなり、走ってそこから逃げだしたくなるほどとても恐ろしくなりました。「ああ 全然ふさわしくない私だ」。それでパンと杯を受け取ることができませんでした。確か、その人は半年だか1年間だか、ずっとパンと杯を受け取ることができませんでした。彼のことが忘れられず、伝道者になって聖晩餐を執り行うようになってから、この後半部分27節以下「だから、ふさわしくないままで~」を、ぼくは礼拝の中で何年間も読み上げることができずにいました。あまりに恐ろしくて。聖書は、ただ読み上げられるだけでは、とても危なっかしい。いつもいつも、十分に説き明かされる必要があります。「全然ふさわしくない私」。その通り。当たっています。ここに集まった全員がまったく神の恵みにふさわしくない者たちです。すべてのクリスチャンがそうであり、もちろんぼく自身もそうです。けれど、それは聴き取るべき真理の中の半分にすぎません。大事な半分ですが、それは半分。残りの大事な半分は、「その、ふさわしくない、不十分な人間を、神さまは憐れんでゆるし、喜んで迎え入れ、救う」ということです。
 宗教改革者はこう説明しました;「この聖なる宴会は、病める者には医薬。罪人には慰め。貧しい者には贈り物。しかし健康な者、義しい人、豊かな者には何の意味もない。唯一の、最善のふさわしさは、彼の憐れみによってふさわしい者とされるために、私たち自身の無価値さとふさわしくなさを彼の前に差し出すこと。彼において慰められるために、自分自身においては絶望すること。彼によって立ち上がらせていただくために、自分自身としてはへりくだること。彼によって義とされるために、自分自身を弾劾すること。彼において生きるために、自分自身において死ぬこと」と。(J.カルヴァン『キリスト教綱要』。Ⅳ篇1740-42)。さて、これがパンを食べ杯を飲み干すときの心得であるとして、それならば、パンと杯が目の前にないときは、私たちはどう心得たらいいでしょうか? 同じです。パンと杯が目の前にあっても無くても。


 (任職式) 【長老・執事の職務につこうとする者のための勧告】

  誓約の言葉を、いつでも覚えていることが大切です。「この職務につくのは、教会のかしらであり、また大きな良い羊飼いであられる主イエス・キリストの召命によるものと確信しますか。その召しにかなって歩もうと決意しますか」。あなたがたは「はい」と答えました。これをよくよく心に刻んでいることができるかどうかが、いつもの分かれ道です。実は長老と執事がこのように仕事をしはじめるだけではなく、牧師もそうであり、一人一人のクリスチャンも同じくそうだったと気づきます。

ある日、どこかで、誰かを前にして、私たちが何かをしようとするとき。しないでおこうとするとき。何かを言おうとするとき。言わないでおこうと口を噤むとき。私たちは、ただただ主イエスの福音に照らして何かを大事に選び取り、あるいは、別の何かをあっさりと投げ捨てることができます。そこは、あまりに自由な晴々した場所です。私たちの主なる神は、世界のためにも、この私たち一人一人と家族のためにも、生きて働きつづけておられます。「主イエスにこそ聴き従いなさい」と命じられています。ほかの誰彼の言いなりにもされずに、自分の個人的意見や気持ちや「したい。したくない」という自分の腹の思いや腹の虫に聴き従ってでもなく。ただただ、主イエスの福音に照らしてこそ、一つ一つを選び取り、福音に照らして判断して暮らしていくこと。ゲッセマネの園での主イエスの祈りのとおりの腹の据え方です。「私たちの願いや考え通りにではなく、ただただ御父の御心のままになさってください。その御心に聴き従って生きる私とならせてください」(ローマ手紙16:18,マルコ福音書14:32-36参照)なぜなら主なる神さまの憐れみによってだけふさわしい者とされたい。神さまご自身からの慰めと力づけを、ぜひ受け取りたい。主によって立ち上がらせていただき、主なる神さまの御心に従って一日一日を生きることをし始めたい。日曜の午前中と午後と、教会の敷地内で、このように心得ていたい。それなら、家に帰って家族の前では? 町内会や親戚たちの前では。職場や学校では。まったく同じです。何をするときにも、どこの誰を前にしても(コリント手紙(1)10:31,コロサイ手紙3:17,ローマ手紙14:6-10。確かに、クリスチャンは自由です。つまりは、神さまにこそ聴き従う中での自由(ガラテヤ手紙5:1-15。神ではない他どんなモノに対しても、縛られず、自由に選びとり、判断して生きるようにと私たちは招かれています。できるでしょうか? 心得も弁えも準備も不十分である私たちなのに? あまりにふさわしくない、いたらない、とても頑固になったり臆病になってしまう、ふつつかな者たち同士なのに? できます。なぜなら神さまが、こんな私たちにさえ、それを必ずきっと、させてくださるからです。先ほど祈りました;「どうか、この志と決心を与えてくださった方が、これを成し遂げる力をも与えてくださるように」。志と決心を与えてくださったのは神である。成し遂げてくださるのも、神ご自身である。このことを確かに信じているし、知っているので、祈り求めています。神こそが、きっと成し遂げてくださる。ご自身からの約束です。