2018年3月19日月曜日

3/18「私は決してつまずかない」マタイ26:30-35


           みことば/2018,3,18(待降節第5主日の礼拝)  154
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:30-35              日本キリスト教会 上田教会
『私は決してつまずかない』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:30 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。33 するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。34 イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。35 ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。                                                  (マタイ福音書 26:30-35)


  30-35節。彼らは讃美の歌を歌い、オリーブ山へ出かけて行きました。とても大切なことが告げ知らされました。聖書に書かれているとおり、『羊飼いである主イエスが打たれ、その羊飼いによって養われている羊である彼らの群れは散らされる』と。けれどペテロも他の弟子たちも皆、「いいえ、私は決してつまずきません。あなたを知らないなどとは決して申しません」などと言い逆らい、自分自身の強さと、この自分がどんなにしっかりしているかなどと言い張りつづけるばかり。そうやって、弟子たち皆が主イエスの言葉を聞き捨てにし、聞き流しつづけます。まるで、主イエスご自身が打たれようが、殺されようが、それとは何の関係もなしに、この自分自身こそは堅くしっかりと立ち続けることができると言わんばかりに。

  33-35節、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。ペテロは自分自身の主への愛情と決意とをぜひ主イエスに分かっていただこうとして、自分の心を精一杯に伝えようとしています。それでもなお、この彼もやはり、神さまを信じる代わりに 自分自身を信じすぎています。その浅はかで愚かな自信過剰が、ほんの数時間後にはすっかり暴かれてしまいます26:69-75参照)。「いいえ、私は決してつまずきません。あなたを知らないなどとは決して申しません」。ペテロも私たち一人一人も、約束できないはずのことを軽々しく約束してしまいます。「大丈夫、大丈夫」などと、太鼓判を押せないはずのところで簡単に太鼓判を押してしまいます。僕自身もそうですが、ほとんどの者たちは、『自分自身が一体何者であるのか、どれほどの者であるのか』を、胸に手を当てて、つくづくと確かめてみたことなどないからです。
 主イエスの口から何が語りかけられていたのかを、あの彼らは誰一人も、ほんの少しも気づいていません。羊飼いである救い主と、このお独りの方によって養われ、支えられ、守られてこそ生きてゆくことができる羊たちのことが語られていました。救い主が打たれようが殺されようが、もし、それでもなお自分自身こそは堅くしっかりして立ち続けると思い込んでいたとするなら、その彼らはもう『羊飼いに養われる羊たち』ではありません。救い主イエスとは何の関係もなく、自分で自分の始末をつけつづけて生きて死ぬ者たちになってしまいます27:4参照)。何をどう信じてきたのか。主イエスを信じて生きることが、いつの間にか、中身のない、ただただ形ばかりの虚しい絵空事に成り下がろうとしています。
  ――旧約聖書の時代から、ずいぶん長い間、彼らは羊飼いと羊の群れの暮らしぶりを眺めて、それらをとても身近に感じ、自分自身のこととして受け止めて暮らしてきました。羊飼いのような神さまだ。その羊飼いに養われる一匹一匹の羊のような私たちではないかと。羊は弱い生き物です。身を守るための武器や道具を何一つも持っていません。ウサギのように危険を聞き分ける良い耳を持っているわけではなく、カメのような堅い甲羅に包まれているわけでもなく、強い獣たちのような牙や角や太い腕を持っているわけでもなく、逃げ去るための速い足を持っているわけでもない。何もありません。しかも羊は目がとても悪くて、目の前の、いま食べている草しか見えません。ムシャムシャモグモグ草を食べているうちに、たびたび迷子になってしまいます。獣たちに襲われ、羊泥棒にも狙われ、心安く生きてゆくためには、ただただこの自分の世話をし、養い守ってくれる羊飼いだけが頼りです。例えば詩篇23篇は、神によって養われつづけて生きる羊たちの幸いを歌っていました、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」。冷たくておいしい水のほとりに寝そべり、豊かな青草が生い茂る牧草地で満ちたりるほどに草をムシャムシャ食べているから、だから、それで何不自由なく幸いで快適だなどと言っているわけではありませんでした。快適ないこいの水辺も、豊かな緑の牧草地も、せいぜい2週間に一回か数ヶ月に一回です。喉をカラカラに渇かせ、腹を空かせて、獣たちにつけ狙われながら、死の陰の谷間、また死の陰の谷間、ようやくくぐり抜けたと思ったら、また次の死の陰の谷間。心細さとひもじさ、恐れの連続の日々です。それでもなお良い羊飼いである神さまが群れの只中を歩み、先頭を行き、群れの最後尾を守って道を共に進んでくださる。それこそが羊たちにとっての幸いの中身でありつづけます。私たちのための恵みと慈しみを携えて、主なる神さまこそが私たちと共に旅路を歩んでくださっている。なんという幸いか、なんという恵みか。
  「主われを愛す」という子供の讃美歌1954年版 461番)を、私たちも覚えています。やがてこの私たち一人一人も足腰立たなくなり、目も耳も記憶力も体力気力も、およそすべての力を失うときが来るとしても。何もかもすっかり忘れ、分からなくなったとしても、自分の枕元にこの歌さえあれば、十分に幸いに生きて、やがて安らかに死ぬこともできるだろうと。まず歌の1節。「主は私を愛してくださっている。その主は、こんな私のためにさえ十分に強くあってくださる。だからたとえ私が弱くても、乏しくても愚かであるとしてもなお、恐ることも心細さもない。私の主イエス、私の主イエス、私の主イエス・キリスト、このお独りの方こそが私を愛してくださっている」。厳しく過酷な世界に私たちは暮らしています。子供たちも若者たちも、お父さんお母さんたちも長く生きてきた年配の方々も、それぞれに乏しさや恐れを抱えて生きています。強がって見せても、誰でも皆、本当はとても心細いのです。不安材料は山ほどあります。けれど、キリストの教会と私たちクリスチャンの1人1人にとりましては、安心できる材料はただ1つ。「主は私を愛してくださっているし、その主は、こんな私のためにさえ十分に強くあってくださる。だから私は」という、このただ一点の真実です。歌の2節3節を読み味わいましょう。「私の罪のため、救い主イエスは栄光も尊厳も力も捨て去って、天から降って来られ十字架についてくださった。苦しみを受け、殺され、葬られ、その三日目に墓から復活し、その復活した姿を弟子たちに見せ、天に昇っていかれ、今も生きて働きつづけ、やがて再び来てくださる」「神の国の門を開いて、主イエスは私を招いておられる。希望に溢れ、ワクワクしながら、昇っていこうではないか」。2節で「十字架についた」と告げられ、私たちはそこで直ちに主イエスの救いの御業の全体に目を凝らしましょう。だって、ただ十字架につけられ死んで葬られただけならば、そこからはどんな力も希望も喜びも、出てくるわけがないからです。もし本当にそうなら、それは救い主でも何でもなく、信じて生きるに値しないからです。そこに果たして、受け取るに値する生命があるのかないのか。彼らがまるで生まれて初めてのようにして喜びにあふれたのは、復活の主イエスと再び出会ったときでした。『主イエスが殺され、葬られただけではなく、その三日後に確かに復活なさった。この主に率いられて私たちも新しい生命に生きることになる』と信じることができるまでは、それまでは、私たちも同じく恐れと悩みの中に閉じ込められつづけます。これが、主イエスを信じる信仰の決定的な分かれ道でありつづけます。3節で、「神の国の門を開いて主イエスが私を招いておられる」と歌いました。さてそれでは、この私たちが神の国に迎え入れられるのはいつでしょうか。死んだ後、やがて終わりの日に? その通り。それが1つの正しい答えです。もう1つの正しい答えは、もうすでに神の国に入れられ、昨日も今日も明日もずっと神の国で暮らしつづけている。福音宣教の初めに、主イエスはなんと仰ったでしょう。「時は満ち、神の国は近づいた。だから思いも在り方も180度グルリと神へと向き直って、福音を信じなさい。信じて生きることをしはじめなさい」(マルコ福音書1:15参照)。すると、歌の4節はとても大事です。「私のボスであるイエスよ、私の腹の思いも行いも口から出る1つ1つの言葉も清くしてくださって、こんな私にさえ、どうか善い働きをさせてください」。あなたも私も、善い働きをしながら生きる者とされていきます。ところで、善い働きって何でしょうか。大きな働きとかじゃなく、皆から誉められたり尊敬されるような立派な働きってことでもなく、善い働き。例えば、子供たちを精一杯に育て愛するお父さんお母さんの善い働きです。年老いた親の介護をし、下の世話をし食事の支度をし風呂に入れてあげ、長く伸びてしまった爪を切ってあげるような善い働きです。会社でも、地域社会でもどこでも、誰に認めてもらえなくても誉めてもらえなくたって、とっても平凡で地味で見栄えもあんまし良くないかも知れないけれど、その人の身の程に応じた、けれど精一杯の善い働きがある。神さまを愛し、隣人を自分自身のように愛し尊びたいと願いつつ働く善い働きです。神さまの御心にかなって生きていこうと悪戦苦闘する善い働きです。それが、この私にもあなたにも必ずきっとできる、と太鼓判を押されています。弱く乏しいながらも、なお主ご自身の強さと慈しみ深さにすがりながら善い働きをする。その福音の場所に留まりつづけることは至難の業です。「私は。私は。私は」というあまりに人間中心の在り方やモノの見方が、『主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも』という神さまへの信頼を押しのけつづけるからです。
  幸いと恵みの中身を、いつの間にかあの彼らはすっかり履き違えていました。主の言葉に耳を傾けようともせず、「私は、私は。私は」と当てにならないものを当てにし、羊飼いであられる救い主に信頼して聴き従って生きることを忘れ果て、投げ捨ててしまっていました。ペテロだけではなく、他の弟子たち皆も同じように言い張りつづけました。まるで何かの病気にかかったかのように。なんということでしょう。せっかく主を信じて生きることをし始めていたのに、とても残念なことです。私たち自身も、たびたび同じようになってしまいます。けれどもし、彼らとこの私たち一人一人も、羊飼いである救い主と、このお独りの方によって養われ、支えられ、守られてこそ生きてゆく羊たちであると思い起こすことができるなら、もしそうであるならば、とても良い羊飼いであられる救い主イエスにすがって、すがりつづけて、そのように生きることができます。主イエスは、本当にはこう仰いました。31-32節、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。羊飼が打たれ、羊の群れが散らされる。けれど主によって養われる羊たちよ、そこで終わりではなかったのです。しかし主イエスはよみがえってから、弟子たちより先にガリラヤへ行き、そこで弟子たちと再び出会うことに決めてありました。あの彼らもこの私たちも、今度こそ本当に『良い羊飼いと羊たちの群れ』として生きることを新しくし始めるために。