2018年4月16日月曜日

4/15「裁かれる救い主」マタイ26:57-68


          みことば/2018,4,15(復活節第3主日の礼拝)  158
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:57-68               日本キリスト教会 上田教会
『裁かれる救い主』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:57 さて、イエスをつかまえた人たちは、大祭司カヤパのところにイエスを連れて行った。そこには律法学者、長老たちが集まっていた。58 ペテロは遠くからイエスについて、大祭司の中庭まで行き、そのなりゆきを見とどけるために、中にはいって下役どもと一緒にすわっていた。59 さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。60 そこで多くの偽証者が出てきたが、証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて、61 言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。62 すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。64 イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。65 すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。66 あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。67 それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、68 「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。                  (マタイ福音書 26:57-68)


救い主イエスに対する裁判が始まっています。まず大祭司カヤパと最高法院議員たちによる裁判、ローマ総督ピラトによる裁判、植民地領主ヘロデによる裁判、そして最後にふたたびローマ総督ピラトによる裁判による裁判。当時、ユダヤの国はローマ帝国の植民地にされていましたから、最終的な決定権はローマ総督ピラトの手の中にあったからです。この26章冒頭の3節を読みますと、大祭司カヤパと最高法院議員たちはすでに、策略をもって主イエスを捕まえて殺すことを決めていました。彼らの望んだとおりに、主イエスは罪がないままに死刑にされます。しかも、これらすべて一切を天の御父と主イエスはすっかりご存知の上で、「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」26:1-2と、そうなることをご自身で決めて、受け入れておられたのです。大祭司の中庭で、主イエスの弟子の一人ペテロが裁判のなりゆきを見届けようとして、そこに集まっていた人々の中に紛れて座っていました。祭司長たちと最高法院議会の全体はイエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていました。61節。最後にふたりの者が出てきて言いました、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。「何も答えないのか」と大祭司が立ち上がって問いただしましたが、主イエスは黙っておられました。けれど、それは本当のことで、確かに主イエスが仰った発言でした(ヨハネ福音書2:19-21。人間の手で造った古い神殿をすっかり打ち壊し、ご自身の死と復活をもって、それを土台として、神ご自身のものである霊的な新しい神殿を建て上げてみせようと。その約束は成し遂げられて、人間の手で造られたのではない新しい神の神殿が次々と建て上げられていきました。もちろん、この上田教会もその新しい神殿の一つです。しかもすべてのキリスト教会がそうであるだけではなく、なんと、神を信じて生きる私たちクリスチャンの一人一人が キリストご自身を土台とする、キリストのものである、神の新しい神殿とされています(コリント手紙(1)3:16-17,6:15-20。このことを、朝も昼も晩も、よくよく覚えておきましょう。
  さて、63節後半からです。「そこで大祭司は言った、『あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ』。イエスは彼に言われた、『あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう』。すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか』。すると、彼らは答えて言った、『彼は死に当るものだ』。それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、『キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか』」。神の子キリストなのかどうか。キリストとは救い主のことです。「神の子」とは、神ご自身であるということです。決定的な質問がなされ、主イエスご自身から決定的な答えがなされました。「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子(=主イエスご自身のこと)が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」と。救い主イエスはとてもはっきりと語り、誰にでもよく分かるほどまっすぐに答えられました。間もなく、主イエスは十字架につけられて殺され、墓に葬られ、その三日ののちに復活し、その復活の姿を多くの者たちに見せ、やがて弟子たちの見ている前で天に昇っていかれ、父なる神の右に座って天地万物を治める権威を御父から委ねられた王の中の王として世界を治めつづけ、やがて終わりの日に天の雲に乗ってふたたびこの世界に来てくださる。――約束されていた救い主についての預言がこのように着々と成し遂げられてゆく。
 けれどこの同じ64節の言葉が、大祭司カヤパと最高法院議員たちにとってはまったく別の、正反対の意味をもちました。主イエスの弟子たちよ。なぜなら救い主イエスは、聞こえない耳、聞こうとしない耳に向かって語りかけたからです。信じようとしない、偏見に満ちた、自分自身の正しさにしがみつく頑固な心に向かって語りかけたからです。心のかたくなさが分厚い雲のように、彼らの耳と心をすっかり覆い隠していたからです。大祭司カヤパはその衣を引き裂いて、主イエスの発言が神への恐るべき冒涜であると受け止めて、言いました。「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか』。すると、議員たちは答えて言いました、『彼は死に当るものだ』。議員たちはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ちました。ある人は手のひらでたたいて言いました、『キリストよ、言いあててみよ、打ったのは誰か」と。公正な裁判の法廷であるはずの場所が、いつの間にか、ならず者たちの勝手放題な暴力の巣窟に成り下がっています。なんと愚かで痛ましいことでしょう、あの彼らは。ですから私たちは、あの彼らのように神の恵みを無にしないために、神の言葉を聞こうとする度毎に、悔い改めて、大慌てで神の憐れみのもとへと立ち戻らねばなりません。「主よ、私たちの耳と心を開いてください。あなたの御心をはっきりと聞き分けさせてください」と心から祈り求めつづけましょう。
  あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう。この同じ一つの警告と励ましがもう一度繰り返されました。主イエスは復活の姿を多くの弟子たちに見せ、語りかけ、やがて弟子たちが見ている前で、天に昇っていかれました。使徒行伝1章8節以下です、「『聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』。こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』」。なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。主イエスが「天に上り、御父の右に座り」とは御父と同じ立場と権能をもって働かれるということです。実際に何度も、主イエスは「すべてのことは父から私に任せられている」「わたしは天においても地においても一切の権威を(御父から)授けられた。だから」(マタイ11:27,28:18-とはっきりと知らせてくださったではありませんか。一切の権威を御父から授けられ、任された方として、王の権威を担って主イエスは働きつづけます。その主イエスがご自分の弟子として使者として、この私たちを町や村へと、それぞれの家や学校、いつもの職場へとお遣わしになります。
 すべてのものの上に立つ王であられる主イエスが、この世界にふたたび来られる。生きている者と死んでしまった者たち、つまりすべての時代のすべての世界の人々を裁くために、主はふたたび来られます。それが、この世界の終わりの日です。裁くとは、善と悪を区別し、正義と不義とを分かち、神の御心にかなう義と憐れみの秩序を断固として打ち立てることです。この世界の終わりの日。また、世界と私たちを裁くために主イエスがふたたび来られますこと。それは、クリスチャンを含めて、世界の多くの人々を恐れさせてきました。確かに、その裁きにおいて、神の御心に逆らうあり方とその存在とは退けられます。だからこそ例えば、「どんな生き方をしていても、誰でも必ず救われる」などと、私たちは聞き心地のよい都合のよい絵空事を語ることはできません。聖書自身は、そうは語ってこなかったからです。神ご自身による裁きの厳粛さに対する畏れと慎みとを、神を信じて生きるこの私たちこそは、いつも深く覚えて生きる必要があります。「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう」(ローマ手紙11:22と警告されています。
 けれどもなお、もし仮に、終わりの日の裁きに対する畏れがキリスト教会の中でまず覚えられるとするならば、それは奇妙なことです。私たちは聖書から教えられ、よくよく習い覚えてきました。主イエス・キリストこそが世界と私たちのための裁き主であると。この私たちの中にも確かにある『神に逆らう在り方=罪』をご自身の身に背負って、裁かれてくださった方こそが裁き主であると。終わりの日、裁きのとき、それは私たちのための救いが成し遂げられるときであるからです。聖書は証言します、「私はあなたがたに裁かれたり、人間の裁判にかけられたりしてもなんら意に介しない。いや、わたしは自分を裁くこともしない」(コリント手紙(1)4:3-5と。なぜなら、私を裁く方は、私のためにも裁きを受けてくださった主イエスである。だから、その主が来られるまでは、先走りをして裁いてはいけないし、どこの誰からも軽々しく不当に裁かれてはならないし、裁かれることもないからである。薄暗い様々なルールやしきたりや約束事、人間同士の軽々しい判断に左右されつづけなくて良いのです。取り繕う必要もなく、誰の顔色をビクビクと窺うことも空気を読むことも、もういらないのです。間違いを犯すまいとして、誰からも非難されまいとして、恐れと薄暗さの中に縮こまっている必要はもうありません。晴れ晴れ清々として、誰に対しても何に対しても恐れることもおじけることもなく一日ずつを生きることができます。なぜ? なぜなら救い主イエスこそが、この世界と私たちのための唯一の裁き主でありつづけるのですから。
  主を待ち望む信仰について、私たちの希望について、預言者イザヤが語りかけています、「ヤコブよ、何ゆえあなたは、『わが道は主に隠れている』と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、『わが訴えはわが神に顧みられない』と言うか。あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ書40:27-31。たとえほんのわずか、主の支えの御手が伸ばされるときが遅れるとしても、主の守りの外に私たちが置き去りにされることはありえません。私たちの道は、それぞれの一日ずつの歩みは、主の憐れみの眼差しの只中に据え置かれつづけます。私たちの訴えと嘆きは、主の耳に必ず届き、それは必ずきっと聞き入れられます。なぜなら主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたいからです。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられるからです。そのことを、よくよく習い覚えてきた私たちだからです。しかも、「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」と念を押されました。主にこそ信頼を寄せることを習い覚える前には、例えば年若い人々を見て、「あらまあ。若くて力にあふれて元気ハツラツとしていて、うらやましいわ。それに比べて私は」などと私たちもつぶやきました。年若くても壮年でも、たとえ百戦錬磨の勇士であっても、熟練の働き手であるとしても、それらはつかの間の、あっという間に過ぎ去ってゆく支えや拠り所に過ぎなかったからです。誰でも弱り、疲れはてて、やがて倒れてしまいます。いくら歯を食いしばっても、心が折れそうになります。これまでにはなかったほどの激しい雨が降り続き、川があふれて洪水が押し寄せるとき、風が吹いて私たちの家に打ちつける日々に、それならば、私たちはどうやって耐え忍ぶことができるでしょうか。何を頼みの綱とし、何を拠り所や支えとして生き延びることができるでしょう。「しかし主を待ち望む者は」と語りかけられています。しかし主を待ち望む者は。しかし主を待ち望む者は。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
  そのことを、私たちは信じます。やがて来られます救い主イエス・キリストを待ち望みつづけて、そのようにして朝も昼も晩も生きることを、私たちは心から願い求めます。イエスは主であると確信し、このお独りのかたの御前に膝を屈め、このお独りのかたにこそ全幅の信頼を寄せているからです。世々のキリスト教会と共に、私たちもこれを同じく信じて告白します、「我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてみごもられ、処女マリヤより生まれ、ポンテオピラトのもとに苦難を受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちより復活し、天にのぼりて全能の父なる神の右に座し給う、かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを裁き給わん――」(使徒信条)