2018年4月11日水曜日

4/8「剣や棒をもって」マタイ26:47-56


            みことば/2018,4,8(復活節第2主日の礼拝)  157
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:47-56               日本キリスト教会 上田教会
『剣や棒をもって』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:47 そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。48 イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。49 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。50 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。53 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。55 そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。 (マタイ福音書 26:47-56)


救い主イエスが十字架におかかりになるその前の晩のことです。弟子たちと最後の大事な食事をし、ゲッセマネの園で祈りの格闘をし、その直後に同じ場所で、主イエスと弟子たちは敵対者たちに取り囲まれます。しかもその人々は剣と棒によって武装した者たちです。主イエスは、あらかじめご自身の十字架の死と復活を御父との間で決めて、よくよく知っておられました。自分で知っておられただけじゃなく、「あなたがたもちゃんと知って、分かっているように」と弟子たちに繰り返し繰り返し予告なさいました(マタイ福音書16:21-,17:22-,20:17-19。主イエスは、剣や棒をもって大勢で迫ってくる者たちに、力で対抗しようとはなさいませんでした。主イエスの弟子たち。ここで救い主は、あまりに無力で無防備な姿をさらしています。救い主イエスが準備しておられた《神の国》は、剣や棒や、強く大きく賢くあろうとする者たちの願いや欲求とはずいぶんかけ離れたものでした。まるっきり違うのです。彼は、ただ捕えられ、ただ引き渡されていきます。ほふり場に引かれてゆく小羊のように。毛を切る者の前で物言わない羊のように、彼は、ただ捕えられ、ただ裁きを受け、ただただ命を投げ出そうとしています。この方のこの無力さ、この無防備さに、私たちは以前にも出会ったことがあります。最初のクリスマスの夜の出来事です。泊まる宿もなく、村の片隅の、家畜小屋のエサ箱の中に、この方はご自身の小さく無防備な赤ちゃんの身を横たえました。裸んぼうで、ただ布切れ一枚にくるまって。およそ500年ほど前のこと、宗教改革を戦った1人の伝道者は、「この赤ちゃんを見なさい」と指さしました。「この赤ちゃんのものではないものはこの世界に一つとしてないのです。これは、あなたがたの良心が彼を恐れることなく、彼のうちに慰めを見出すためなのです。神さまは、あなたがたが彼のうちに避け所を見出すようにと、あなたの前にこの赤ちゃんを置かれるのです。誰にも、彼を恐れはばかることはできません。……神さまの慈悲は何よりもまず、あなたが絶望しないことを望まれます。彼を信じなさい。彼を信じなさい」(M.ルター『クリスマスブック』,新教出版社,p61)。クリスマスの夜ばかりではなく、一年中、私たちはこの特別な赤ちゃんの姿を思い起こしたいのです。家畜小屋のエサ箱の中に置かれた救い主イエスの姿を。


  55節;「あなたがたは強盗に向かうように、剣や棒をもって私を捕らえにきたのか」。祭司長や民の長老たちから送られてきた大勢の群衆に向かって、主イエスは仰っています。そして裏切ったユダに対しても。いいえ それだけではなく、弟子たちを振り返って、またここにいるこの私たちを振り返って、主は同じことを仰います。「その手に後生大事に握っているものは何だ? どういうつもりか。ずいぶん長く私に従ってきたはずなのに、そのあなたまでもが剣や棒を持つのか。手持無沙汰なように、心細そうに、何か身を守る道具はないかといかにも物欲しげにキョロキョロ見回しているのか。まさか剣や棒によって、私やあなたがた自身を守ろうとでも考えているのか」。私たちは何ほどの者でしょうか? ゆるされた罪人たちよ。ゆるされてなお罪深くありつづける小さな小さな者たちよ。この世界は、実は《剣や棒を握るものたちの王国》でありつづけます。互いに押したり引いたり、見栄や虚勢を張り合ったりしあう。強さや由緒正しい格調の高さや多数であることや、自慢できる得意な何かをもっていることが、その王国で勝ち抜いていくためのルールでありつづけます。教会の中でも外でも()、強さと数の多さがその勢力を決定づけるのであり、優れていなければ、にぎやかに繁盛していなければ、せめて人並みでなければ、ひどく肩身が狭い。そこで、いつも私たちは選択を迫られます――
  ①剣や棒をもつ。丈夫で役に立つ道具を、1つでも多く手に入れる。 ②怖気づいて、散り散りに逃げ去ってしまう。あるいは、③人間からのものではないまったく新しい別の、つまり神ご自身の《強さ,権威》のもとに立つか。
あのお独りの方は、剣でもなく棒でもなく、人間たちの力の強さや数の多さでもない《権威》を携えて来られました。主イエスは律法学者や他のどんな大臣や先生たちともまったく違って、本当に権威ある者として、神ご自身からの権威を担って教えられたので、だから人々はひどく驚きました。驚きつづけます(マタイ7:28-28。だからこそ剣や棒など持たなくても、手ぶらでも、自慢できるような才能や得意なものを何一つ見出せなくても、この方のもとに立つことがゆるされます。いいえ、むしろ、剣や棒や強さや数の多さに目が眩んだままでは、この方の《強さ,権威》に気づくことができません。この後ごいっしょに歌います讃美歌3331954年版)は、不思議な安らかさを歌っていました。あまりに逆説。アベコベで裏腹な真実です。333番の1節、「主よ、どうか私をがっちりと捕まえていてください。そうすれば、私の心は解き放たれて、自由になることができます。私が握っているこの剣を、今にも相手に向かって振り降ろそうとしているこの刃を、どうか粉々に打ち砕いてください。そうすれば、こんな私であっても、私を苦しめ悩ませている敵に打ち勝つことができるでしょうから」。え? 剣や棒を握るのでなしに、どうやって打ち勝てるというのか。だから、52節です。「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者は皆、剣で滅びる」。他の人々に対してではなく、主イエスは特にご自分の弟子である私たちに向かってこう仰り、このように警告なさいました。人間的な力や権威や世間様からの良い評判、見栄を張り、体裁を取り繕おうとする心、由緒正しい伝統、格式の高さなどによってではなく、ただただ主イエスの権威によってだけ立つようにと。そうでなければ、キリストの教会と私たちクリスチャンは滅びると。人間からの、人間たちの間での権威か、それとも神ご自身からの権威のもとに立つのか? 両方はなく、どちらか一方しか選ぶことができません。もしかして、私の敵、私を苦しめ悩ませている敵の正体は、この私だったのか。私自身の心の中にこそ、私を苦しめる手強い敵が巣くっていたのか。

  わが心は定かならず、
  吹く風のごとく絶えず変わる(2節)
    わが力は弱く乏し、
  暗きにさまよい道に悩む   3節)

 2節、「私の心は定かではありません。吹く風のようにコロコロコロコロと移り変わってゆきます。ほんの小さな風が吹き、さざ波が立ちます。すると安心したり、心配になったり、満足して喜んだかと思えば、ほんのささいなことでもう悲しみ嘆いている。ですから主よ、あなたご自身の手で私の手をしっかりと掴んで引っ張っていくように、連れていってください。そうすれば、こんな危うい気もそぞろな私であっても、まっすぐな晴々した道を歩いてゆくことができるでしょうから」。2節、3節は共に、やはり自分自身の不確かさや危うさや弱さを振り返っています。そこから、神に願い求めることをしはじめていますね。むしろ、その心細げな低い場所からでなければ、誰1人も神さまに本気で願い求めることなど出来なかったのです。私たちの信仰の出発点がここにあります。4節の末尾;「そうすれば、永遠の平安を受け取るでしょう」。「永遠の」に含まれる意味は、「ずっといつまでも続く」ことと共に、「いつでもどこでも、どんな場合にも誰と一緒のときでも」という広がりと確かさを含みもちます。その広がりと確かさを自分自身のこととして知っているし、信じているので、それで「どうか主よ」と願っています。この333番のことを1人の友だちに打ち明けたことがあります。「教会に立ち戻ってきて、神さまを信じて生きるようになったその初めの頃から、この333番が自分にとってとてもとても大切なんだ。困り果てたときのお守りみたいなものだし、神さまと自分のことを教えてくれる特別な家庭教師みたいで、心を支えてくれる用心棒みたいで、歌うたびに、ああこういうことだったと教えてもらえる。それで100回でも200回でも、朝も昼も晩も、この歌を口ずさみつづけている」。するとその友だちは、「え、そうですか。嬉しいなあ。実は私も、この歌なんです。学生時代に心を捕らえられて以来ずっと長い間、大事な讃美歌の一つなんですよ」と。主よ、どうか私をがっちりと捕まえていてください。そうすれば、私の心は解き放たれて自由になることができます。私が握っているこの剣を、今にも相手に向かって振り降ろそうとしているこの刃を、どうか粉々に打ち砕いてください。そうすれば、こんな私であっても私を苦しめ悩ませている敵に打ち勝つことができるでしょうから。

             ◇

  主イエスは捕らえられ、引き渡されてゆきました。このことをあらかじめ預言して、イザヤ書53:6ではとても厳しいことが語られていました。「われわれはみな羊のように道に迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上に置かれた」と。そのわたしたちの不義、罪。たとえ私たちが《羊の群れ》のようであって、その眼差しの低さと了見の狭さ、自分勝手さによって、またその弱さや臆病さのせいで道を誤ってしまったとしても、たとえそうだとしても、それらは私たち自身の不義であり、罪だったのです。どこから来て、どこへと向かっているのかを見失い、そのためにこそ神さまからも、いっしょに生きるはずの人々からも、あるべき自分自身からもはぐれて、迷いだし、おのおのの道に向かって行き、そこで誰かを傷つけたり、誰かから傷つけられたり、誰かを苦しめたり、あるいは苦しめられたとしても、たとえそうだとしても、それらは償われるべき不義の結果でした。私たちの主イエスは、刺し貫かれ、打ち砕かれました。それは私たちのすべての背きと不義を担ってくださるためでした。それは私たちが安らかに平和に暮らすためであり、この私たちもまた癒されて、神の憐れみのもとへと立ち返って生きるためでした。主イエスは軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みと恥と苦しみを背負い、病いを知ってくださいました。あなたの痛み、私たちの病いが、主の体に深々と刻まれました。
  主イエスを見捨てて、弟子たち皆が逃げ出しました。けれども主イエスご自身は、決して彼らを見捨てませんでした。あの弟子たちも私たちも、主を愛したり尊んだりすることに失敗しつづけましたが、主ご自身はなお私たちを愛することをお止めになりませんでした。やがてこの主のもとに私たちは再び呼び集められます。そのとき、主を見捨ててしまったことも、手ぶらで逃げたことも、手ぶらのままで再び主のもとに呼び集められたことも、新しい意味を帯びて、まったく別の驚きをもって、私たちの魂に、キリスト教会の歴史に深々と刻まれたのです。主の弟子たちは裸で手ぶらでしたが、もう恥ずかしがりはしません。恐れもしません。物欲しそうに、心細そうに、周囲の誰彼を見比べることもしません。主ご自身のものであるキリスト教会は、神さまの御前に、またこの世界に対しても、裸であり手ぶらであって、けれどそれを恥とはしません。主のものである私たちは、1人の伝道者も、1人のクリスチャンとしても、なお裸であり、何をもってしても着飾ることもできず、取り繕うこともできないと知らされ、身を隠すべき木立もなく、腰を覆い隠すべき小さな葉っぱも虚しいと告げられ、「そんなものは下らん。つまらない。直ちに投げ捨ててしまえ」と叱られ、けれどなお恥じることなく、ほんのわずかも恐れることもなく、ビクビクして身を隠す必要もありません。なぜなら、慈しみ深い神さまは「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。あなたは土から取られたのだから。あなたは塵だから塵に帰る」とアダムとエバに語りかけたあと、二人に皮の着物を造ってを着せかけてくださいました(創世記3:19-21。それだけでなく私たちにも、特別仕立ての着物を作り、私たちのこの裸の身体を覆ってくださったからです。他には、この私たちの哀れさや心細さや恥ずかしさを覆うものなど何もありません。隠され、秘められたもので、明るみに出されないものなど何一つもありません。すっかり丸ごと見通しておられる方があります。神さまの眼差しの中に、この私自身の愛の乏しさも、かたくなさも強情も、憎しみも傲慢さも、卑屈さもズルさもあらわにされ、すっかり知り尽くされていました。しかも、そこに《神さまの憐れみとゆるしの衣》が掛けられ、今ではすっかりと覆われてしまっているではありませんか。私たちは今や、その裸の上に、一枚の衣をまとっています。ご自分の衣をすっかり脱いで、つまり自分は裸になって、それを私たちに着せかけてくださったただお独りの方がおられるからです。救い主イエス・キリストが。「さあ、これを着なさい」と。私たちは驚き、目を見張ります。裸になってくださった救い主イエスの義の衣(ローマ手紙3:21-,ハイデルベルグ信仰問答.問60に。「なぜなら」と何度でも何度でも、いつまででも、同じ一つの答えを答えたい。兄弟や家族に向かっても、この私自身の魂に向かっても。
なぜなら、なぜなら。なぜなら、あの丘の上に。あの十字に組み合わされた木の上に、あの独りのお方が命を献げてくださったのだからと。