2018年5月21日月曜日

5/20「自分自身を救わない救い主」マタイ27:27-44

            みことば/2018,5,20(聖霊降臨の主日の礼拝)  163
◎礼拝説教 マタイ福音書 27:27-44                 日本キリスト教会 上田教会
 
『自分自身を救わない救い主』
 
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 
 27:27 それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。28 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、29 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。30 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。31 こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。・・・・・・35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、36 そこにすわってイエスの番をしていた。37 そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。38 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。   (マタイ福音書 27:27-44)
 
 
          救い主イエスが十字架につけられ、無残に殺されようとしています。その姿を見上げ、あまりの情けなさと惨めさに呆れ果て、バカにして笑う人々がいました。39-44節、「そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、『神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい』。祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、『他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから』。一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった」。あの時、処刑場に集まった人々に、十字架の主イエスがののしられていました。あの時ばかりではありません。その後も今日でも、この十字架の主と、主を仰ぐ信仰はきびしく挑戦を受けつづけています。この信仰への誘惑は、今ではもっとスマートで現代的な、もっと気さくで親しみやすい顔つきで近づいてきます;「一度ぜひ聞きたいと思っていたんだよ。なぜ十字架なんだい? なぜ、神の独り子なんだろうね?」と。十字架のキリストなんかなくたって、あなたは十分に救われているじゃないか。神の独り子などいなくたって、あなたは十分に立派な信仰を持っているじゃないか。私にはこの信仰が必要だ、と言うのか。いやいや、信仰なんてなくたって、あなたは十分にあなた自身じゃないか。そんなに難しく考えなくてもいいんだよ。礼拝や祈りや、聖書の言葉に聞くことがいったい何の役に立つ? 十字架のキリストを仰ぐことに、いったいどれほどの意味がある? 「礼拝。礼拝」とそんなに目の色を変えなくたっていいじゃないか。「十字架のキリスト」と、そんなに深刻に思いつめなくたって。さあ、肩の力を抜いて、見回してごらん。もっと有意義な、あなたをもっと豊かにし、もっと楽しませ、もっと快適にしてくれるものが他にいくらでもあるじゃないか。

 「・・・・・そうかも知れない」と、私たちは思いはじめます。試しに、1回、2回3回と礼拝から遠ざかってみます。そして4回5回6回と。祈ることも、聖書の言葉に聞くことも、十字架のキリストを仰ぐことも、ちょっと試しに、脇に置いてみます。なんの不都合もありません。私たちは簡単に、どこまでも遠ざかってみることさえできるのです。心を注ぎ出して必死に祈ったことも、神を求めて呼ばわったことも、「わたしの主よ」と目を凝らしたことも、跡形もなく消えてゆきます。そして、神さまとは何の関係もなく、私のいつもの毎日が流れていきます。神とは何の関係もなく、この私は生きてゆくことが出来る。・・・・・・あれ、本当だ。信仰なんかなくたって、私は私だ。しかも、なんの不都合もなく痛くも痒くもない。誘惑と試練の中でそのように、1人また1人と、はるか遠くまで連れ去られていきました。その彼らも呻いています。「いったいどうやって生きてゆこうか」と。

 聖書は語りつづけます。神の独り子イエス・キリスト。その十字架の死と復活による救いと。それは神さまから私たちへの愛の出来事だった、と聖書は語ります。「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである」(ペトロ手紙(1)3:18)。あの苦しみは罪人たちのためでした。罪人たちとは誰のことでしょうか? ただしい方がただしくない者たちのために苦しまれた。ただしくない者たちとは誰のことでしょう? あなたがたを神のもとへと導くために。あなたがたとは誰と誰と誰のことでしょうか? 主イエスはなんだそれはと小馬鹿にされ、あざけり笑われています。「十字架から降りて、自分を救ってみろ。他人は救ったのに、自分は救えないのか。今すぐ、十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。この誘惑こそ、主イエスによる救いの出来事に対する最後の、最大の誘惑だったのです。けれど兄弟たち。私たちの主イエスは、『十字架から降りない』ことを決断なさいました。『自分で自分を救うことを決してしない』と腹をくくったのです。

 礼拝説教の中でも祈りの最中でも、普段のいつもの会話でも、「人間は罪深い。私たちの罪」と語られつづけて、そのとき、それを何か抽象的なことと思ってはなりません。ただの理屈や建前などと聞き流してはいけません。なぜなら兄弟姉妹たち、ずいぶん偉そうな、分かったふうな顔をしている私たちです。「罪深い私です。ふつつかで愚かな私です。主からの恵みに値しない私たちです」とスラスラ言いながら、その舌の根も乾かないうちに、軽々しく人を裁いている私たちです。「あの人はだらしない。自分勝手だ。この人はふつつかだ。この人はなんて愚かなんだろう。あの彼らはまったく値しない」と値踏みをし、冷ややかな批判を並べ立てることがどうしてできるでしょうか。「教会は罪人たちの集団にすぎない? ゆるされてなお罪深くありつづける罪人たち? なるほど確かに。私も罪深いが、けれどあの人の方が私の3倍も4倍も罪深い」と言うのでしょうか。「私にも勿論ふつつかな所やいたらない点もほんの少しはあるかも知れないが、だってほら、あの人の方が、私なんかより遥かにふつつかでいたらない」などと、いったいどうして言えるのでしょうか。あのとき人々は「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫びたてていました。その憎しみの叫びはますます大きく、ますます激しくなっていきました。今日でもなお人々は、いいえこの私たち自身も、「私の体面。私の体裁や面子」と叫びたてつづけます。「私の働きと努力と甲斐性が私を救った。私の勤勉実直さと有能さと気立てのよさが、つまりは私は自分で自分自身を救った」などと。それで得意になったり、目の色を変えて怒ったりガッカリしたり。放っておけば四六時中、朝から晩までそんなことをソロバン勘定しつづけ、「面目が立った。倒れた。面子が保たれた。これでは面子丸つぶれだ」などと一喜一憂しつづけます。私の体面や体裁が保たれさえすれば幸せになれる、と思い込んで。もしそれを失ってしまえば私は惨めで情けない、と思い込まされて。

 けれども兄弟たち。神さまご自身が、その独り子を、十字架に引き渡したのだと聖書は告げます。あの時、神様ご自身の面子も体裁も丸つぶれでしたよ。神さまご自身の品格も格式も尊厳も、すっかり泥にまみれていました(ピリピ手紙2:5-11,イザヤ53:2-3参照)。もしかしたら、「やたら格式ばって、権威ぶってて偉そうで」という彼らのあの批判は当たっているかも知れません。パンと杯が格式ばって偉そうだというのではなく、もちろんキリストご自身がということでもなく、この私たち自身こそがいつの間にかなんだか格式ばり、権威ぶってお高く留まり、偉そうになっていたのかも。そのくせひどくケチ臭いのかも。今日のキリストの教会は。クリスチャンたちは。いいえ、他でもないこの私たち自身は。

  こう証言されています;「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。・・・・・・わたしたちが敵であった時でさえ」(ローマ手紙5:6-11)。驚くべきことが語られています。神さまは救い主イエスを遣わし、私たちの救いのために、あまりに惨めで無残な死に渡してくださった。けれどそれは、私たちが十分に善良であったからではなく、信仰深かったからでもなく、誠実だったからでもなく、やがて多分、強く信仰深く忠実なものになるだろうと見込んでということでもなく、ただただ神さまがなにしろ私たちを愛してくださったからでした。「なにしろ愛した。ただただ愛してくださった。だから」と聖書は語りつづけます。本当のことです。

 兄弟たち。心を鎮めて深呼吸して、この私たちこそが立ち返りましょう。私たちはいったい何者でしょう。ピリピ手紙2:5-11は、キリスト教会と私たち自身の親分であられる方がいったいどういう方なのかをはっきりと告げています。親分はあの方、私たちはその子分、手下であるはずではありませんか;「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ」と。固執なさらなかったあのお独りの方が、驚いて、目を真ん丸にしてこの私たちを見つめておられます。どこまでも執着し、こだわりつづける私たちの姿にガッカリしておられます。ご自分を無にし、しもべの身分になり、徹底して身を屈めてくださったお独りの方が、「嘘ォ」と目を疑っておられます。「私の気持ちは。私のやり方は。私たちの面子や体裁や格式は」としがみつきつづける私たちを見て、心を痛め、渋い顔をなさっています。何ということでしょう。もしかしたら私たちは、いいえ、この私自身は、あの救い主からも救いの恵みからもはるか遠くに離れてしまったのかも知れません。救い主イエスよ、私たちを憐れんでください。イエスご自身は、そのあまりに惨めで無残な十字架の死を自ら担い、自ら、死に至るまで生命を注ぎだし、ご自分の意志と判断で面子丸つぶれの死を死んでくださったのです。キリストは私たちの罪をすべてご自身の肩に担ってくださったのです。十字架につけられることによって、十字架から降りないことによって、自分で自分を決して救わないことによって、そこでようやく、私たちが受けるはずの罰を全部すっかり丸ごと背負ってくださいました。そこに、他の何にも代えがたい祝福があり、飛びっきりの確かさがあり、深い慰めと平和があります。私たちは知っています。呪いを引き受けてくださったお独りの方によって、あの丘に、あの木の上に、そこに、私たちのための祝福があります。そこにあります。この後ご一緒に歌います1954年版)讃美歌の333番は、不思議な安らかさを歌っていました。あまりに逆説。アベコベで裏腹な真実;「主よ、私をがっちりと捕まえていてください。そうすれば、私の心は解き放たれて、自由になることができます。私が握りしめているこの剣を、今にも相手に向かって振り降ろそうとしているこの刃を粉々に打ち砕いてください。そうすれば、こんな私であっても、私を苦しめ悩ませている敵に打ち勝つことができるでしょうから」。剣や棒を握るのでなしに、この手に金や銀や取り得や見所や得意で自慢できる何かを握りしめるのでなければ、どうやって勝ち抜いていけるというのでしょう(マルコ14:48,使徒3:6。え? まさかもしかして、私の敵、私を苦しめ悩ませている敵の正体はこの私。自分自身の心の中に、苦しめる敵が巣くっていたのか。私の心は定かではありません。吹く風のようにコロコロコロコロと移り変わってゆきます。ほんの小さな風が吹き、さざ波が立ちます。すると安心したり、心配になったり、満足して喜んだかと思えば、ほんのささいなことでもう悲しみ嘆いている。そんなことの繰り返しです。ですから主よ、どうか、あなたご自身の手で私の手を掴んで引っ張っていくように連れていってください。そうすれば、こんな危うい私であっても、まっすぐな晴々した道を歩いてゆくことができるでしょうから」。2節、3節は共に、やはり自分自身の不確かさや危うさや弱さを振り返っています。そこから、神に願い求めることをしはじめています。むしろ、そこからでなければ、誰1人も神に願うことなど出来なかったのです。立ち返って生きるべき、私たちの信仰の出発点がここにあります。

  讃美歌333番の4節末尾;「そうすれば、永遠の平安を受け取るでしょう」。「永遠の」に含まれる意味は、「ずっといつまでも続く」ことと共に、「いつでもどこでも、どんな状況でも」という広がりと確かさを含みもちます。生きて働かれる神を信じ、この方に期待し、願い求めることができなければ、この私たちは、安らかに生き延びてゆくことなどできません。どこで何をしているときにも、だれと一緒でも。若くても年老いていても。健康でも病弱でも。頼もしい仲間たちに囲まれていても、ただ独りでいても。自分自身のためにも、隣人たちのためにも子供や孫たち、後に続く世代のためにも。「どうか主よ」と願っています。ご主人であられます神さま、私たちを憐れんでください。私たちを祝福し、守ってください。あなたの御顔を向けて、私たちと私たちの暮らしを明るく照らし出してください。あなたの御顔をこの私たちにも向けてくださって、私たちの顔と思いをあなたご自身へと真っ直ぐに向け返させてくださり、そのようにしてこの私たちにも、あなたからの恵みと平安を贈り与えてください(民数記 6:24-26を参照)